群雄割拠~治世の能臣、乱世の姦雄~
曹操の登場
三国時代の英雄の中では曹操が最も年長で、かつ名家の出であったため重要人物として歴史にまず登場します。
黄巾の乱の起こった中平元(184)年、三国志に登場する英雄たちは何歳ぐらいだったのでしょう。曹操29歳、劉備23歳、関羽22歳、張飛20歳、諸葛孔明3歳、孫堅28歳、孫堅の子の孫策9歳と孫権2歳、司馬仲達5歳というところでしょうか。
彼らはおいおい各章に登場してくるのですが、ここでは演義で劉備や諸葛孔明の好敵手、憎まれ役を一手に引き受けている曹操を取り上げましょう。
曹操は字は孟徳、沛国(安徽省一帯の古称で、漢王朝の創始者劉邦の故郷の沛県で有名)の亳州で後漢永寿元(155)年に生まれました。第1章で述べたように、父は宦官曹騰の養子となって曹姓を名乗るようになったのですが、もともとは夏侯氏の出です。そのため、曹操陣営には夏侯姓を名乗る武将が何人もいます。
幼い頃から狩りや歌舞音曲を好み、任侠の徒と交わり、機知に富み、権謀術策に長けていたといいます。当時の教育の根幹をなしていた儒教の学習こそしなかったのですが、家柄も良く頭もいいと言うので、乱暴者ではあったのですが、面白いエピソードも多く伝わっています。
曹操の墓には何と彼の頭蓋骨まで出て来て、おそらく頭痛持ちであり、その頭痛原因に虫歯の放置による菌の脳への感染が考えられているそうです。曹操が時折あまりにも理不尽な対応、恩人一家を皆殺しにしたり自分の意にそわぬ人物を殴り殺したり、自分の愛人をも撲殺するというような常人には考えられない行為をすることも、その脳の発作によるものと考えるとうなずけるのだそうです。
演義によれば、この曹操、ある観相家の人物評の評判が高いと聞きつけ、これを訪ね自分の人物評をしてもらったのです。ところがこの観相家、はなかなか人物評を言ってくれないのです。曹操が時折カッとして狼藉の限りを尽くすことがあるのを聞いて恐れをなしたのでしょう。何回も催促した挙句やっと口を開いた時、彼はこう言ったそうです。
「治世の能臣、乱世の姦雄」
これを聞いた曹操は大笑いです。我が意を得たり、と。
黄巾討伐に決起する決意を固めたのはこの言葉を聞いたことが大きかったのではないでしょうか。
事実その頃、曹操は祖父の宦官曹騰が蓄えた財産により集めた武器と自分の出身である名門の威光を元に 5000の兵を集め、黄巾の乱討伐軍に武将として出征したのです。
この討伐軍の兵を挙げる以前、曹操二十歳の頃、親の七光りいや祖父の七光りのおかげで中央官界に文章係として任官し、更に洛陽北部の県の警察署長をやって一応の地位は持っていたこともこの挙兵には幸いしたようです。
さて黄巾の反乱軍とそれを鎮圧する政府軍との戦線は膠着状態にあったのですが、各地に鎮圧軍に参加する勢力があらわれ、政府軍が優勢になり黄巾軍は敗走を始めたのです。
この時の政府軍の中に、後に三国志の所以である魏、蜀(蜀漢)、呉のそれぞれの皇帝となる曹操、劉備、孫権が加わっていたのは驚きです。
曹操はこの黄巾軍との戦いで戦果をあげ、その戦功によって済南の相となります。ここで曹操がやった統治は、まずは黄巾の乱の精神的なバックボーンとなった太平道の教えの禁止、新興宗教や邪教の弾圧そして信賞必罰と合理的なものだったようです。
曹操はその後、河北から山東省にまたがる地域の大守に任命されますが、そこには赴任せず故郷に退いてしまいました。ここで兵法研究に没頭し『孫氏の兵法』の解説書を著すほどの勉強をするのですが、これは後ほど魏軍の戦略戦術におおきく役に立ったのでしょう。
孫権の父、孫堅は
さて孫権はどのような人物だったのでしょうか。
孫権の父の孫堅は、呉郡つまり浙江省富陽の人で、字は文台、17歳の時に海賊退治をして呉郡の役人に取り立てられます。黄巾の乱に際し、孫堅は討伐の兵を起こすのですが、劉備に比べればやや人数が多いもののいかんせん田舎の徒党の衆のような軍隊なので主力にはなっていません。戦果もはかばかしくなかったらしく、あまり評価されず長山郡の太守にやっと取り立てられたのでした。しかしその後、涼州(甘粛省)の反乱鎮圧の戦功により長沙の太守に登用され、その後も荊州三郡の乱を抑え烏程侯に封ぜられます。とりあえずは諸侯の一角になったわけですね。
劉備たちの動き
では「三国志演義」の主人公、劉備は何をしていたのでしょう?
演義によると、
劉備、関羽、張飛の三人は張飛の家の裏の桃園で天地の神々を祀り、同甘共苦と同死を願う義兄弟を契ります。年齢から言って一番上が劉備、次いで関羽、張飛の順であったため、この順で兄弟の順列になったのでした。
この桃園の宴の席に村の屈強の若者数百人を招き、共に戦うことを誓い、劉備を中心とした軍勢が出来上がっていったと言います。さて、人はいても武器と資金がないわけですが、そこへは演義によると馬商人が通りがかりので馬商人の持っていた馬や資金の提供を持ちかけたのです。商人は快くそれらを与えたため3人の主な武器そして武器運搬用の馬などが揃ったので、劉備軍は早速黄巾の乱討伐のために挙兵宣言したのです。
実際は、豪商などを半ば力で強要し、物質や資金を手に入れたに違いないと思うのです。まぁ多少の寄付で済むものならば、全財産を奪われるよりマシということで豪商金持ちたちはゲリラ的旗揚げに資金や武器などを提供したのでしょうね。
こうして挙兵した劉備たちですが少人数であったこともあり、たかだか小部隊の小隊長クラスにしかなれなかったのです。乱の討伐軍に加わったとはいえはかばかしい戦果も上げていなかった劉備は、何もない庶民の出とみなされ、河北の県庁の下にある小役人で300石の禄を与えられたに過ぎなかったのです。
ここでも出自の良い曹操とは初めから雲泥の差がついています。面白くないという思いは昔も今もも同じで、3人は仕事もせず酒ばかりくらっていたと記載されています。
演義によると、そんなある日、 中央からやってきた巡察官の視察を受けることになったのですが、この巡察官、地方役人たちの勤務評定にをするので地方役人はこの巡察官に媚び、接待し、賄賂を渡すというのが普通だったということです。
ところが劉備達3人は、それまでの処遇に対する不満から酔いも手伝って巡察官の宿舎に殴り込みをかけ、寝ていた巡察官を縛り上げ、200回もむち打ち、半死半生の目に合わせてしまったのです。劉備は自分の役職の象徴である印綬を外して巡察官の首に掛け、3人で悠々と退散したのでした。
こうして河北省の任地から蓄電した劉備は、かつて通った塾の同門の公孫瓚の軍に入り、反乱鎮圧に軍功を立て、やっと上官殴打の罪を帳消しにされたほか、平原県の役人に登ることになったので、劉備は気を良くし、腰を落ち着けて実力拡充に乗り出したのです。黄巾の乱から3年後のことでした。