「三国志」の名は誰でも知っているでしょうしファンも多いでしょう。実は「三国志」という名前の書物は2種類あるのです。それは公式な歴史としての「三国志」とそれをもとにした物語の「三国志演義」です。
中国の歴史で、最も長く続いた漢王朝(前漢は紀元前206年 〜紀元8年。後漢は紀元25年 〜220年。前漢と後漢を合わせて430年ほど)、しかし後漢末期の2世紀末にはようやく制度疲労を起こし、各地に反乱がおきました。
こうした反乱でも最大のものが頂角率いる黄巾の乱※1でした。華北を中心とした後漢王朝の中心部を席巻し、これに加わる武装勢力やあるいはこれを鎮圧しようとする王朝に付く勢力など、各地の豪族が動き出した時代です。まさにこの乱世の時に、漢王朝を分裂させ権力を握った三つの地方政権、その地方政権の攻防を描いたのが正史の「三国志」です。その歴史書に則って民衆の間で語り継がれた故事などを、まとめて作られた物語が「三国志演義」です。
今回、ここで取り上げるのは「三国志演義」の舞台となった中国の町を1980年頃から1986年頃にかけて、撮影した記録です。大まかな演義の流れも参考に要約してあります。
※1黄巾の乱:新興宗教、太平道のリーダー頂角が起こした漢王朝に対する反乱ですが、その反乱の中で各地の豪族が集合離散を繰り返し、権力が崩壊して行きました。(下部写真『漢魏故城跡』参照)
◎これらの写真の多くは『三国志ー英雄の舞台』(旺文社1987年発行)に掲載されたものです。
第1章 動乱の序曲
~張角黄巾の乱を起こし、天下大いに揺らぐ~
三国志演義
後漢の最末期霊帝の中平元(184)年、甲子の年の正月、首都洛陽に奇妙な呪文が流行る。
蒼天すでに死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子に在り
天下大吉
このような呪文の言葉が洛陽に密かに流布していた。蒼天とは漢、 黄天とは「治病伝教」を掲げる張角が始めた太平道のシンボルである。
その意味は漢が滅び太平道の天下が来る。その年は今年だという不吉な予言である。これは張角が自分の思いを実現するため漢王朝打倒のために決起することをほのめかし、人心動揺を狙い事前に流布した言葉であった。
ところがことは事前に漏れた。反乱決起に内応を約束していた宦官との連絡役の男が、漢王朝の威風堂々たる衛兵の姿を見て怖気づいた。そして約束していた宦官には合わずに反乱計画を訴え出たのであった。
計画の漏洩を知った張角は予定を早めて直ちに決起した。2月初めのことである。36万と呼ばれる太平道の軍事組織は黄色の布で頭を包んでいたので、この乱は黄巾の乱と呼ばれた。 軍事組織以外の各地の信者たちも加わり、庶民を搾取する拠点となっていた役所を襲い役人たちを殺戮していった。こうして黄巾の乱は華北を混乱の渦中に引き込んでいった。
プロローグ
三国志演義のプロローグは、後漢王朝末期の宮廷や統治の乱れから色々な地方に軍閥が起こり、その軍閥が集合離散しやがて後漢王朝の統治機構を崩していくという大きな流れを説明しています。
王莽が建てた「新」王朝は短期間で崩壊します。その後の戦乱を乗り切り皇帝となったのは前漢の恵帝の縁者で南陽郡の小豪族劉秀(後の光武帝)です。この光武帝により漢王朝は復興します。これが後漢王朝で、洛陽(現在の洛陽市から東に約15kmの地にあった)を都に支配体制を確立し、全国を再び統治しました。
中国の歴代王朝で一度簒奪された帝位を、縁者が再び取り返して王朝を復活する例は殆どありません(唐王朝で則天武后に乗っ取られた帝位を息子が取り戻した例があります)。
漢王朝の統治方法は皇帝の直轄地は官僚を派遣し、それ以外の地域は漢王室の親族などに統治させるやり方でした。しかし後漢王朝の頃はほぼ皇帝の直轄地となり、皇帝の権力は高まったかに見えました。
ところが前漢王朝と同様に後漢王朝も外戚、つまり皇帝の正妻(皇后)の親戚が権力を握り、自分の縁戚を身贔屓する、そして官僚は彼らに忖度するようになります。
さらに宦官、いや官僚というより本来は皇帝のハーレム、後宮で働く 下働きの役人ですが、皇后や側室たちに日常的に接するという立場を良いことに、政治に介入し、私利私欲のために政治をほしいままにするという前漢王朝と同じ弊害に悩まされ続けていました。
この外戚と宦官、それに官僚との権力争いが、後漢王朝も滅亡に導いて行ったのです。
曹操登場
当時は権威というものが血統や家柄で評価されていた時代で、袁紹、袁術と言う前漢からの名家と言われる家系の豪族が軍閥化していき、その軍閥を新興勢力である曹操などは利用しながら自分たちの権力を掌握していきました。
三国志演義では悪役の代表的な人物として描かれている曹操ですが、実は名家出身ではありません。彼は宦官の養子の子供、孫として出生したのです。
宦官は生殖能力を切除された男性ですが、なんと高位の宦官は養子を取るという手段で子孫を残すことが出来ました。祖父の曹騰は皇帝の身の回りに侍る役職で大きな権力を持ち、養子や孫も曹家を継ぐことで新興豪族としてある程度の力を持ったと思われます。
洛陽の人々
撮影当時の洛陽市内の人々の暮らしの紹介です。今に比べるとものは少なく設備も整っていませんでしたが、人々は明るい顔をしていました。写真を撮っていると、わーっと人が集まってきたりしたものです。
洛陽の見どころ
市内では白馬寺が有名です。後漢の明帝の頃、西域から招来した迦葉摩騰と竺法蘭が仏典を乗せてきた白馬に由来し命名されたという伝説がある寺院です。伝承が記録されている仏教寺院の中で最古の寺院と言われています。
郊外になると洛陽石窟は超有名です。中国三大石窟の一つで、撮影当時も各地から観光客がたくさん来ていました。
唐代に掘られた石窟寺院です。伽藍はすでになく、数多の石像が露座におわします。中心になるのは盧舎那仏像で中国史上唯一の女帝、則天武后を模したと言われています。