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~同憂の三傑桃園に結義し、同甘同苦を誓う~
演義では
黄巾の乱に驚愕した朝廷だが、実態をあまり把握できない霊帝(後漢末期の皇帝)は、何皇后の兄、外戚の何進を征討大将軍に任命して鎮圧に乗り出した。何進は軍隊統率も戦争経験もない男である。このような人物が反乱鎮圧に成功するわけはないと思われた。
ところが、黄巾軍側では張角が光和7年8月に病死し、参謀も指揮官もいない黄巾軍は10月には鎮圧されてしまったのである。しかし、この黄巾の乱をきっかけに、各地に反乱が続出する。
物語の本流の主人公たち、劉備、関羽、張飛が登場するのは、この場面からである。
劉備は、劉姓を名のっていることから、漢皇室の縁者を自称していたが、皇室との繫がりと言っても、中山靖王劉勝(? – 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔というルーツを持つというだけで、家は貧しく筵を綯って糧にするような有様だったと言う。
ただ、家の前に桑の大木が有り、幼少の劉備は「いつの日か桑の木製の馬車に乗る」と言ったと伝わっている。桑の木製の馬車は天子の乗り物とされていた為、叔父からきつく叱責されたのであったが見どころがあると思われ、経済的支援を受け儒学を學ぶことができた。
成人した劉備は背は約7尺5寸(約173cm)と高く、両腕も垂らすと膝に届かんとするほど長く、耳たぶが肩に触れんばかりと長く、自身で見ることができたと言う異相であった。
あまり学問に熱中しないが人の話をよく聞き、そして豪傑達とよく交わり、人懐っこく人望が有り、その周りには常に人が集まっていた。
この玄徳、黄巾の乱の話を聞き、義憤をつのらせていた。義兵の立て札にため息を付いていたところ、そのため息を咎めるものがいた。「良い若者が、立ち上がらんでどうする」というわけだ。その大男、張飛と名乗り、ともに義兵に参加しようと居酒屋で杯を重ねていた。そこに飛び込んできた大男が、仲間に加わってくる、これが関羽であった。
この3人、満開の桃園で杯を重ね、盛り上がり、意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ。年齢順に劉備が兄、関羽が次兄、張飛が末弟という義兄弟の契りを結んだ。
こうして、劉備・関羽・張飛を主人公に、物語は展開していく。
桃園の結義の地、涿県に向かう
三国志演義の最初の故事である「桃園の結義」縁の地の河北省涿県に、桃の花咲く4月、北京から向かいました。1980年頃の北京では北京の人でも涿県がどこにあるか知らないし行った事がある人など皆無です。タクシー運転手に行き方を尋ても道を知らない人ばかりでした。北京の市街地図は売っていましたが、全国はおろか北京周辺の道路地図なんぞは売っていません。やっと友人の兄さんが行ってくれるというので、早朝北京を出発しました。
不安な気持ちで車を南に走らせること約一時間半。うっすらと双塔が見えるあたりの道路表示板に「涿県」の文字を見つけてほっと一安心。この道で良かったんだ。辺り一面は小麦畑で家々と屋敷林が散在し、遥か西方に大行山脈が霞んでいます。
涿県の市街地は西と北に高さ約10 mの城壁が残っている町で、中国語では「城」という文字が町の意味で使われていることが実感できます。城壁をよじ登ると城内はびっしり平屋が立ち並び甍の波です。薄紫の桐の花が満開のころで、北側の城壁に並行して雲居寺塔と志度寺塔が望めます。北京の近くにこんなに典型的な中国の町が残っているとは思っていませんでしたので、嬉しくなってしまいます。ここはいかにも三国志の故地にふさわしいじゃないか、と。
三国志縁の地を見つけるまで
涿県に着いたのはいいのですが、その頃の大抵の観光地に売っていた地図もみつかりません。こうなったら、ひたすら「桃園の結義の場所」を聞きまくるしかありません。通行人に三国志関連の名所などを聞くのですが答えはたいてい、「没有(ないよ!)」か「不知道(しらん)!」です。
なぜ地元の人が桃園の結義の故地を知らないのか知りたかったので、当日運転してくれた友人の兄さんに伺ったところ、どうやら文化大革命期の教育で「反動的」な歴史は学ばなかったのが原因だろうとのことでした。外国人客用のホテル「桃園賓館」に行けばわかるかもと言うことでそのホテルに行き、服務台(フロント)で三国志の故地の在り処を聞いたのですが、私の中国語による質問にさほど興味を見せず「I don’t know(英語で!)」というだけでした。知らないというより教えるのが面倒くさかったのかもしれません。
当時の風潮としては、若者は古いことに関心がなく、政治スローガンの改革開放に乗って新しいものにのみ関心が向けられていたのも原因だったかもしれませんだ。
通行人に何人も聞きまくり、四人目にやっと三国志の故地、つまり「楼桑村劉家荘に廟があった」ということ、その名前は「三義堂」ということがわかったのでした。
三義堂に向かった
この情報に基づき、京広線路沿いに幹線道路(京広公路)を数km南下したあたりの楼桑村劉家荘に向かいました。まがりなりにも舗装してある道が途切れ、凸凹した泥未舗装に変わったあたりで廟(中国の民間信仰で、神や偉人などを祀った物)を探したのです。たまたま通りかかったお年寄りに聞くと、麦畑の一角にある薄汚れた建物を指差し言ったのです。「那個(あれ)」。
「ここだ、ここが劉備の生家跡に違いない。桃園の結義はここで結ばれたのだ。」と思うと胸がジーンとして力が抜けていった。中国の劇画本(連管画)の桃園結義の場面が目に浮かんできた。
感激に浸っているうちに目がなれ、ゆっくり三義堂を見る余裕も出てきたので色々見ておりましたら、、、、、。
三義堂:3つの門は日干しレンガでピッタリと塞がれ、屋根は瓦葺きではあるが草茫々。そこまではまだ古のイメージを掻き立てるのだが、ハゲかかった壁の漆喰には大きな文字で「厠」。これはいけないよ。
この唐代創建と言われる由緒ある建物は、なんと農機具置場や便所として使われていたのでした。かつては劉備、関羽、張飛などの像が祀られていた廟は文化大革命の時に打ち壊されてしまったということでした。
「三国志演義」幕開けの地で、歴史的価値もあるものをなんでこのように粗末にするのだろうと残念至極です。
なんとか気を取り直し、結義のときのイメージを撮影しようとしたのですが、あたり一面は菜の花と麦畑。どこにも桃の花がありません。かつての境内には桃の老木があって、それらしい雰囲気を醸し出していたのですが、文化大革命の際に切り倒され、主食の麦畑に変えられてしまったのだと言う話です。
老人の話では、この村には劉姓の物が多く、劉備の末裔を自称するものもいたほどで、皆、三義堂を崇めていたのだそうです。
楼桑村劉家荘の村人
付近で色々伺った集落の人達
張飛の故郷
ここで耳よりの話を聞いたのです。三義堂より西方約2kmの所に張飛の故郷、張飛店があるということです。早速線路を横切り農道を西へ向かいます。張飛店の集落は劉家荘に劣らず小さい集落でしたが、集落の広場には石造の基台が保護されています。これが張飛ゆかりの井戸で由来を記した清代乾隆期の石碑も残されていました。
ここにも張飛を祀った廟があったのですが、やはり文化大革命で跡形もなく壊され、岩の破片が残っているだけでした。ここでも張姓の村人がいてすこし寂しげだが誇らしげに張飛の井戸のいわれを説明してくれました。
本来は誰でも自分の住む土地が生んだ英雄を誇りに思っていることが、ひしひしとわかる旅でした。
大男だった張飛は豚肉の商いをしていたという。売れ残った豚肉の保存をこの井戸にぶら下げ、大石で蓋をしていた。
「この蓋をどかすことができるのなら、吊るした肉はくれてやるわ」と、豪語していた。
ある日赤ら顔の大男が通りかかり、あっさりと大石の蓋を外し、吊るした肉をぺろりと平らげてしまう。これを知った張飛は怒り心頭、赤ら顔の大男と組んず解れつの大喧嘩。そこに通りかかった劉備が二人を引き離し仲直りをさせた。これがきっかけで劉備と張飛、赤ら顔の大男つまり関羽が義兄弟となっていった、という。
三国志演義より、生々しい話で、信憑性がありそうですね。
関羽の故郷
関羽が演義に登場するのは涿県での場面からですが、正史の『三国志』蜀誌関羽伝には「関羽、字は雲長、本字は長生、河東解人なり」と出生地が書かれています。解州とは今の山西省運城市一帯の古い呼称で、市の南西約10kmの常平村で関羽は生まれたといわれています。
運城付近には、関羽の故事が多く残されていますが、山西省南西部の塩湖から取れる特産の塩にまつわる話が有名です。この地で塩商人をやっていたと言われる関羽が横暴な太守熊虎の子供を打ちのめしたため、名を変えて琢県に亡命したとの伝説です。これで、関羽が涿県にいたわけが分かりますね。