目次
天下大いに乱れ、漢室衰弱し、曹操天下を握らんとす
地方軍閥の台頭
さて地方では反乱が相次いで起こっていました。政治の腐敗堕落は何一つ改善されていないからで、何やら清朝末期に似ていますね。
漢王室ではその対策として全国13州の長官である刺史に兵馬の指揮権も与えて「牧」とよび、その州の統治と軍の権限を与えたのです。つまり「牧を置く」とは13人の軍閥の形成であり、中央政府の威信低下の折にこれら牧が群雄割拠のもとになりました。三国鼎立は実にこの牧の制度が生み出した当然の結果だったのでしょう。結局十三の軍閥が三つの軍閥に統合されたに過ぎなかったからです。
政権を巡る混乱
一方、中央の軍事力強化のため「西門八校尉」が置かれ、その総司令官に宦官が任命されたことから、外戚の代表格であった何進との勢力争いが発生します。中平四(189)年に霊帝は34歳で死去し、その後継者をめぐる争いに絡んで何進は宦官に殺されてしまったのです。この間、何進は西門八校尉の袁術の薦めで涼州(甘粛省)の新興軍閥董卓に救援を求めますが董卓が到着しないうちに宦官に殺されています。袁術はこれに怒り、宦官2000人あまりを皆殺しにしてしまうのです。
霊帝の後を継いだ少帝はわずか14歳、少数の側近に守られて洛陽を脱出します。やがて馳せ参じた董卓に擁立されて帰郷し、董卓は中央の実力者になりあがったのです。
何進の旧部下と首都守備軍司令官の丁原の部下を手中に収めますが、その時に活躍するのが呂布です。呂布はもともと丁原の副官でしたが董卓に唆され上官の丁原を殺して董卓の元へ馳せ参じたのでした。
中央の軍事力を握った董卓は、これに反対する袁紹を翼州河北省の地方へ追いやり、自ら相国(首相)となって少帝を廃帝とし自死に追い込み、少帝の弟の陳留王劉協を擁立します。かれが後漢最後の皇帝となった献帝です。
董卓の横暴と専制
漢室を我が物とする董卓を討つべしとの声が起こり、これを恐れた董卓は自分の縄張りである長安(今の西安)へ遷都を強行するため、幼い献帝を強引に連れ出し長安に赴かせたのです。
董卓自身は洛陽に踏みとどまって決戦の準備を始め、初平二(191)年春、董卓打倒軍の一部が洛陽に突入するに至ってやむなく長安へ退いたのでした。
こうした情勢を察して董卓を見限ったのは呂布でした。
演義によると直接のきっかけは董卓が寵愛していた絶世の美女貂蝉と呂布ができてしまったことで、呂布は事が露見して成敗を避けるため董卓を殺すことになったというストーリーです。
翌年4月、幼い献帝の病が治癒し文武百官が参内した折を見計らって呂布は董卓の殺害に成功 します。長安市民は財宝や衣類を売って酒に替え歓迎したと言うからよほど董卓は恨まれていたのでしょう。街頭に晒された死体のヘソに役人が火を灯したところ何日間も燃え続けたとも言いますので、それだけ腹に脂肪がたまっていたメタボだったのでしょうね。
さてこの董卓に代わって呂布が政権の権力者にのし上がったのですが、皇室の警備兵たちの不興を買ったため腹心の五原騎兵数百を率いて長安から逃げ出すことを余儀なくされます。このことから呂布は五原(今の内蒙古自治区オルドス地域)を出身とするモンゴル系の遊牧民を自分の基盤としていたと思われます。
曹操の再登場
一方、郷里に引き込んでいた曹操のもとに、董卓から「驍騎将軍に任ずる」という懐柔のための辞令が届くのですが、同時に「董卓を撃て」という密書もどこからが送られてきたのです。曹操は家財を投じて兵を募り、初平元(190)年4月、袁紹の下、他の6人の軍閥とともに反董卓の軍を挙げたのです。36歳の時であったと言います。
誰もが身銭を切って集めた自分の兵隊を消耗させることを嫌って出撃を渋った中でしたが、曹装はあえて渦中の栗を拾うべく出兵し、敗北はしたものの頼りになる男という評判を得ます。董卓軍に破れたため南方揚州へ走ったのですが高い世評のおかげで瞬く間に兵が集まり、旧に倍する軍勢となったのでした。
さて董卓は除かれましたが各地に反乱が相次いで起き、兌州の黄巾の乱の残党は勢いが強く山東省の牧を殺してしまいます。そこで後任の牧となった曹操は反乱鎮圧に成功し、反乱軍の30万の捕虜を得てこれを自軍に編入し青州兵とし大軍閥にのし上り、袁紹の配下から独立を果たしたのでした。
さてこの曹操に独立をされてしまって軍事力が低下していた袁紹のもとに、転がり込んできたのが呂布です。呂布は武力に優れ戦術にも長け、軍事力を支える男と見た袁紹ですがいつ裏切るか分からないと言う ので、これを暗殺しようとします。ところがその裏をかかれて呂布に逃げ出されてしまったのでした。
孫堅の運命は?
さて長沙太守に任命されていた孫堅はどうなったのでしょう。
董卓を討つために洛陽に突入した孫堅でしたが、到着は董卓滅亡の後の混乱時でした。これに乗じて伝国の印璽を入手したのです。
演義によると宦官皆殺し騒動で 献帝一行が慌ただしく宮殿を離れた際、保管係の宦官が井戸に印璽を隠して埋めていたのを掘り出したのです。孫堅はこれを16歳になる息子の孫策に渡します。そこまではよかったのですが、なんと翌日流れ矢に当たって死んでしまったのでした。享年37歳、三国の礎を築いた男の中では最も早く舞台から去ったのでした。孫堅の子供孫策は印璽を持ってやむを得なく南に戻ったのです。
劉備、棚ぼた式に徐州の牧に
呂布が袁紹の元から逃げ出した頃、曹操の父や弟は手違いから徐州の牧、陶謙の部下に殺さてしまいました。曹操は報復のため大軍を発して徐州を攻撃します。慌てた陶謙は平原の県令としてじっくり実力を蓄えつつあった劉備に救援を頼んできたのです。劉備は私兵3000人に貸し与えられた4000人の計7000人の部隊長となり、ついで陶謙から豫州(河南省)の知事の辞令を受け勇躍出兵したのですが、報復の念に燃えた曹操軍に 蹴散らされ、駆逐されてしまったのでした。
こういう時に曹操の軍事力とその野心を危惧した人々の中から曹操打つべしという声が起こり、曹操のかっての親友張邈を中心としたグループが結成されたのです。その時張邈の軍に姿を現したのは袁紹の下を脱出して以来行方をくらましていた呂布です。張邈はこの呂布に兗州を攻めさせたので曹操は兵を引きました。
呂布の攻撃によって曹操が兵をひいたために命拾いをした陶謙は安心して気が緩んだのかまもなく病死し、その遺言によって助っ人にきた劉備が思いがけなくして徐州の牧の地位を手に入れます。
言ってみればフロックで、決して戦に強いわけでもなく自分の統治していた地域で庶民に熱烈に支持されていたでもないただの居候、いわばごろつきに毛の生えたような軍勢であった劉備がとうとう牧という軍閥と認められる地位を手に入れたのでした。
曹操、献帝を許に迎える
さて献帝はすでに13歳になっていました。切なる希望により長安から洛陽に遷都し、年号も建安と改元しました。196年のことで、有名な建安文学と言われる曹操と二人の子供たちによる名文はこの建安年間に作成されたものです。この建安は24年も続きましたが、結局後漢王朝最後の年号となリます。
ここで曹操と呂布との戦いが再開され、破れた呂布はなんと劉備のもとに転がり込んできたのです。曹操は宮廷に入り込んだ黄巾が上がりの連中を倒すと言う名目で洛陽に乗り込み、やがて色々な手を使って献帝を自分の本拠地の許(現在の河南省許昌県)に迎え、許を後漢の臨時首都(許都)とします。曹操は大将軍、武平侯に任ぜられ、宰相と警視総監を兼ねるというという褒賞辞令がだされ、曹操は一躍天下人にのし上がったのです。この時曹操は働き盛りの40歳頃でした。
根無し草、劉備
やっと手に入れた徐州の牧を呂布に乗っ取られ、劉備は呂布から小沛城を与えられます。しかし呂布は劉備の人心掌握力を恐れこれを襲い、劉備は敗北してなんと曹操のもとに逃げ込みそこの客将となったのです。
つまりこの時代、劉備はあちらにつきこちらにつき、ここに逃れここに入り込むと言ったまるで名無し草のような生き方をせざるを得なかったのですね。当然、劉備に従って行動をともにしていた関羽と張飛も同行しています。
演義によると、ある日、曹操は劉備を招いて宴を設け、さりげなく話を切り出しました。
「今、天下に英雄は雲の如くいるが、本当の英雄は我々二人だけだな」と。
これを聞いた劉備はそう思われているのは危ないと思い、顔色を変えて箸を落として狼狽を装います。たまたま激しい稲妻と雷鳴が轟くのですが、「失礼私はあれが大の苦手で」と小心者を装ったのですが、その真意を見抜いた曹操は劉備を軽侮することはなかったのでした。
そうした折に、曹操と呂布の間に戦いが起こり、呂布はとうとう曹操に捕らえられ、曹操の面前に引き出されます。
演義によれば、呂布は曹操に対し「われが(曹操の)副将になれば(曹操を)大将にしてやる」とうそぶいたのですが、同席していた劉備は「呂布が使えていた丁原、董卓はどうなっただろうか」と曹操を諌めたのでした。曹操は劉備の忠告を受け入れ、呂布を絞首絞してしまいました。乱世を引っ掻き回した梟雄、呂布はここで歴史の舞台から姿を消したのでした。
演義に登場する武将の中で、おそらくは最強だったのはこの呂布だと思うのですが、信義のひとかけらもなく、自己の欲望のままに行動をしたため、最後はあえなく絞殺されて終わっています。いかに毀誉褒貶が当たり前だった中国でも、やりすぎは蔑められ排除されるという教訓を人々に与えたのですね。
しかし、ここにしゃしゃり出てきたのが劉備。演義の話ですから眉唾ものですが、自分だって使えていた主人を次々裏切っているわけですので、呂布を非難するのはズーズーしいと思いますね。
反曹操計画と劉備の身の振り方
献帝を自分の本拠地許昌に囲い、恣に政治を動かしていた曹操に対し、宮中では曹操討伐が密かに画策され、弱将の劉備もこれに参加することになります。この計画が実行前に、劉備は反曹操に参画した袁術を討伐する(曹操の側に立ってみれば)という名目で許昌から徐州に逃げ出すのでした。袁術は袁紹への合流を劉備に阻まれたため引き返し、その後病死してしまいます。
袁術が死亡した後も劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州の長官を殺して乗っ取ります。呂布のことを批判できないですよね。
下邳の守備を関羽に任せて劉備が元居城としていた小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方したのです。曹操と敵対する羽目になった劉備は反曹操の大物、袁紹と同盟し、曹操軍が派遣した軍を攻撃したのです。
呂布のことを誹った劉備ですがあれほど厚遇してくれた曹操を、いとも簡単に裏切ったわけです。だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来るとコテンパに打ちのめされ、袁紹の元へと逃げさるのでした。この時、劉備の逃亡時に取り残された関羽と劉備の妻子は共に曹操に囚われてしまいます。