曹操天下を袁紹と争い、官渡に矛を交える
天下分け目の大決戦
建安五(200)年、袁紹軍の別働隊として曹操の勢力圏に攻め寄った劉備を撃破した曹操は、その余勢をかって袁紹を討つべく反転して来ました。袁紹もまたこれを迎え撃とうと南下します。天下の13州のうち袁紹は華北の北方の4州を勢力下におさめ、曹操も同じく華北の南方4州の支配権を握っていました。他は劉表が荊州、孫権が揚州、劉璋が益州などせいぜい一州を保つにすぎなかったので、曹操と袁紹の両者の激突は文字通り天下分け目の戦いだったわけです。
両軍は黄河支流(黄河の旧河道)にあった官渡でにらみ合います(官渡は現在の河南省鄭州市中牟県東北官渡村一帯)。にらみ合いは3ヶ月に及び、その間は曹操は得意の謀略戦によって袁紹軍の有力武将を寝返らせ、袁紹軍1万人分の食料を焼くなど袁紹軍の士気を大きく喪失させます。
両者対峙の間、劉備は袁紹の近くにあってつぶさに袁紹の言動を観察した結果、曹操の敵に値しないと見抜き、官渡の戦いの決戦前に戦線を離脱し、荊州の劉璋を頼って逃走しちゃったのです。
関羽の働き
さて曹操に降伏した関羽ですが、曹操には気に入られ厚遇されますがかかたくなにその厚遇を拒み劉備が置き去りにしていった夫人たち家族を守って過ごすのでした。
演義によると
関羽は曹操に降る時、条件をつけます。1つ目は、関羽は曹操に降伏するのではなく漢王朝に降伏する。つまり劉備がどこにいるかわからないから曹操に降るということ。2つ目は劉備の生存が確認できた場合はどんな時でも直ちに劉備のもとに行くことを認める。3つ目は、劉備の家族に対し指一本触れないというものです。
曹操はこの条件を飲み、関羽は曹操のもとで客将として過ごすことになります。
曹操の客将となった関羽は、曹操軍に加わります。そして曹操軍が手こずっていた袁紹軍の武将、顔良と文醜に単騎で斬りかかり一刀のもとに撃破したのでした。これが曹操に大いに評価され、厚遇され数々の褒美を贈られ旅ですが、関羽は頑なにこれを拒み、劉備に対する忠義を貫くのでした。
関羽、曹操から離脱し、劉備の元を目指す
劉備とはぐれ、曹操の客将となっていた関羽は、劉備が袁紹軍に加わっていたことを知り、劉備のもとへ走るのでした。ところが曹操の設けた関所の通行許可の書状を持参してないため阻止されてしまいます。
ここで関羽は関所を守る曹操軍の守備隊長たちを次々と斬り殺し、劉備の元を目指すのでした。これが関羽の五関突破斬六将という故事です。
さて、このようないきさつもあって関羽はようやく黄河を渡り、劉備の元ににたどり着いたのです。
官渡の戦いの後
袁紹軍と曹操軍の決戦、官渡の戦いそのものは、建安五(200)年10月に行われたのですが曹操軍の大勝利であっけなく終わリます。曹操軍は斬首7万という大戦果を挙げ、袁紹はわずか800人余りの部下とともに洛陽に遁走します。袁紹はその後しばらくは余命を保ち得たものの、もはや天下争奪の戦線に復帰することができぬまま、建安七(202)年5月失意のうちに世を去ったのでした。
こうして曹操は覇者となり、華北を中心に勢力を伸ばしてゆきます。
曹操を裏切り、袁紹についていた劉備はどうしていたでしょうか?
機を見るに敏と言いましょうか、袁紹を見切って官渡の決戦の前に袁紹軍から離脱します。そして荊州の牧、劉表を頼って逃避行を始めたのですが、劉備が一時統治していた下邳の住民たちは劉備を慕って一緒に荊州を目指したのです。そのため移動が遅く1日に10里も行くことができなかったのでした。
そこで劉備はまず現在の襄樊に止まり、そこで曹操の軍勢を止めることにしたのですが、曹操の方は先に劉備追跡の騎兵を送っていたため劉備はこれに追いつかれてしまいます。そこで劉備は一戦を交えるのですがあっという間に蹴散らされ、ほうほうの体で襄樊の城に逃げ込むのでした。